作家が語る探偵小説観-あ行〜さ行-


-あ-


No.40掲載

赤沼三郎のことば

本格探偵小説は一に分析と帰納と推理にかかっていて、その点科学と全く表裏をなすものに外なりません。一つの不可解な現象に当面して、それを解決するのは、あらゆる精確な観察と厳密な分析と妥当な帰納と論理的な推理によらなければならない。そのためには必要なすべての理論を援用し、時によっては分析を逆に行く合成による実証も用いなければなりません。またこの過程における論理の構成方法も全く探偵小説と同一という外はありません。
だから私は探偵小説は科学を文学で表現した文芸だと思っています。文芸の形式に昇華された科学だと考えています。そして科学に於ける新しい発見発明は探偵小説の前進に無限の輝かしい分野と指標を与えるけれども、それは直ちに探偵小説の前進を意味するものでもありません。たとえば新しい発見発明の理論に取材されたものであっても、それが読者に理解されない時には科学的にはフェア・プレイであっても探偵小説としてフェア・プレイとはなりません。そこにのみ科学と探偵小説の相違が存在すると思います。そこに探偵小説の前進をはばむなやみがあります。だからその国のベスト・セラーの探偵小説を見ればその国の科学水準が知られ、これは他の文芸では論じられない大特長でしょう。
近来の探偵小説の流行は尊ばれなければならないが、この立場より見る時は日本のそれはどうでしょうか。棋界に深い関心を持っているものは、その意味でいい探偵小説を書き、読ませるように心がけねばならないと思います。

「探偵と科学小説」より


No.31掲載

鮎川哲也のことば

アリバイ物は、同じ本格派仲間の犯人の意外性をねらった形式の小説に比べると、創作するのにはるかに容易だというのが私の持論である。縦横に伏線をはりめぐらし、赤い鰊をばらまくという作業は、誰にでもできるというものではなかろう。私にしても<りら荘>一篇でネを上げて了い、爾来、一本も書いていない。というよりも、書けないのだ。これに反してアリバイトリックには一定のパターンがある。それをとっかえ引っかえ用いてゆけばよいのだから、こんな楽な仕事はない。(中略)
私にとってアリバイ物の難しさは、読者が意外に思うであろうところにある。謎を解くきっかけを如何に設定するか、ということがそれだ。松本氏の<時間の習俗>中で最も印象にのこっているのが、容疑者が必要とする筈のない定期券を求める場面であるのも、それが事件を解決に導く決定的なポイントとなっているからであろう。本格物を評価しようというときは、こうした点に示された作者の手腕を見逃してはならない。
アリバイ物がある程度の読者の支持を得ているのは、不可能興味が強烈だからだと私は考える。その点では密室物と似ていなくもないが、密室物が非現実的なおもむきを呈し、ともすればマニアのためのトリックという印象をぬぐえないことに対して、アリバイ物はいかにもありそうな話が素材になっている。それが昨今の読者の好みに合うのではないか。したがって、今後も、SFやハードボイルドとまではいかないにしても、アリバイ物のあたらしい作家の登場が予想されるのである。

「即席アリバイ・トリック調理法」より


No.47掲載

荒正人のことば

探偵小説では、犯行の手口には重点がおかれていたが、動機は、金と女というように簡単に扱われてきた。少しこみ入った場合でも、劣等感の代償とか動機のない動機ということに留まっていた。しかし、最近では動機に力点をおく傾向もみられる。それは、探偵小説の発展のために歓迎すべき傾向である。それとは別に、努力捜査の方法に力点をおいてもよいかと思う。天才探偵の霊感と平凡探偵の二種だけでは、少し淋しい。
その場合、第一に考えられるのは、集団探偵である、三人寄れば文殊の智慧である。小説家にとっては、余り魅力をかんじぬかもしれぬが、捜査会議の模様に力点をおくものがあってもよい、読者の側からいえば、結構おもしろい。(中略)
私が集団探偵を主張するのは、捜査会議だけを念頭においているからではない。科学技術の研究・開発などでも、個人方式はもう通用しなくなっている。複数の研究者がチーム・ワークで、研究を進めるという方式がどこでも採用されている。これは、研究の領域だけではない。天才の直感や凡人の努力は、それが個人のものに留まっているかぎりは、殆ど効果をもっていない。チーム・ワークでは、組織者が必要であり、また、チームの組み方も苦心を払わねばならぬ。これは、個人の生きがいとか創造性の開発と結びついて、いろんな研究がなされている。探偵小説の書き手が、そういう領域でも、新鮮な着想を提出してみたならばと思う。

「探偵方法についての考察」より


No.34掲載

有馬頼義のことば

僕は、読者は常に作者の考えている以上のことを考えることはない、という従来の探偵小説の暗黙の大前提を認めることはできない。僕は、自分にたいして、一つの出発点を示し、そして一見不可能だと思えるような結論を、先に提出するが、それはあくまで、自分自身に対する謎の提出であって、その二つの点を、日常性と論理で、どうやって結びつけるか、というやり方をしている。
その、僕自身の思考の過程を、読者に楽しんでもらうより仕方がないのだと考えている。
さらに、つけ加えるならば、僕は、事件があり、警察が活動し、犯人がとらえられたときに、小説がはじまるのだと思う。犯人をとらえるだけでいいなら、刑事のカンでも、名探偵の超人的な推理でも、占い師の言葉でもいい。ある程度の証拠と、犯行の動機は、あとからつけ加えればいいことだ。しかし、人間には、その人間が犯した罪にたいして、法律の定める刑罰を受けなければならない義務がある。(中略)
極端な例だが、刑事のカンや占い師の言葉では、その悪を罰することができないのだ。だから、僕は本当は、犯人が送検され、裁判に付されてからの犯罪を書きたいのだ。この場合それが困難な事情は、日本の裁判の制度が、多分にそれが退屈なために生じた。

「私の推理小説論」より


No.41掲載

石沢英太郎のことば

いまの日本推理小説の舞台は、多岐・広汎にわたる。いささかの驚きと、いささかの皮肉をこめて、いうならば、現在の日本の推理小説ほど、舞台(小説の背景とも解釈してよい)に貪欲・悪食なものはない。あらゆる小説の分野を蚕食している。しかも流行に敏感である。
例えば、風俗小説が、主調を示したとなるや、推理的手法の武器を生かして、情事小説専門作家の域に踏みこみ、ポルノグラフィそこのけの、風俗味を盛る。
読者が、社会の中間層で占められ、その欲求が、企業内部にむけられるや、機を逸せず、産業推理小説が表れ、推理味を抜きにするギセイを払っても、企業事情暴露に走る。
一口でいえば、すでに推理小説と一般小説の舞台は、まったく重なっている。
とすれば、ほかの小説が扱わなくて、推理小説のみが、その責を果たす舞台は、エドガー・アラン・ポーの鼻祖に遡ぼって、「密室」しかあり得ないことになる。(中略)
推理小説は「謎」を追う。それを、支えるものは「好奇心」だ。犯人は誰か? という好奇心、未知のものへの好奇心、未知の土地への好奇心、そういった好奇心を満たす要素が、推理小説には、とくに要求されるのではないか。ということ。
最初に、風俗小説をあげて、否定的なことをいったが、セックスへの未知的要素に対する欲求が、読者にある限り、これも当然の舞台といえる。否定することのみが、正しいとはいえないかも知れない。

「推理小説の10大問題・舞台」より


No.11掲載

井上良夫のことば

探偵小説の持つ特殊な面白味には、先ず何よりも「論理的な面白味」が挙げられなければならないと思う。探偵小説の特殊な面白味にはミステリィの面白味がある。不可解に出くわして生じる興味である。これは探偵小説独特の、また欠くべからざる面白味の大きな部分に違いない。しかし探偵小説の場合では、怪談と違って、単にそれはミステリィとしてだけの面白味ではない。そのミステリィの背後には必ず論理的な解決が伴っているのである。つまり、探偵小説のミステリィの面白味は、それが必ず約束しているところの論理的な面白味に外ならないだろう。解決までを通じて非常にロジカルであるということが探偵小説の興味の根本を占めているものとみなければならない。
が、先にも云ったように、探偵小説のこうした論理的な面白味も決して一色ではない。それは、大別して、探偵小説が取り扱っている「犯罪構成」から来るものと、「探偵」の方から来るものと、まづこの二つに別け得られるかと思う。犯罪構成の方からくるそれは、つまり探偵小説のプロットそのものから、我々が感じさせられる論理的な面白味で、これは甲賀氏が使っておられる言葉を借用して、ストーリィの探偵的興味、或いは推理的面白味、とでも云うべきものであろう。もう一方のデテクション側から来るものは、主として作中探偵の推理の面白味であって、謂わば論理そのもの、の面白味である。

「探偵小説の本格的興味」より


No.5掲載

海野十三のことば

勝れた探偵小説とはどんなものであるか、その答をいと簡単に云うなら、それは謎の出題と謎の解決とその答を示し、而も自然科学の本質の中に美しく生きている娯楽文学であると云いたい。
謎の出題と解決とその答を必要とすることは今更説明するまでもあるまい。このうち謎の出題は娯楽文学のことであるから、ひと口にいえば相当面白いものであるを要し、その解決は後に示す自然科学の本質をもって律することが出来るものであった上に、同時にまた相当興味ある解決によるものであるのを宜しとし、またその答は必ず明示されなければならず、しかも性質として意外なるものほど結構である。(中略)
次に探偵小説に於いては、以上のべた謎を取り扱うのに、自然科学を無視するようなものであってはならない。もっと突込んで希望するならば、自然科学の本質の中に密そめる美を指摘し、これを生かすように心懸くべきである。(中略)
最後に、探偵小説は謎それ自体だけではなく文学の一種であり、もっと明瞭にいうなれば娯楽文学であることを考え誤ってはならない。

「探偵小説論ノート」より


No.2掲載

江戸川乱歩のことば

純探偵小説と犯罪小説の境界を定めることはむつかしい。探偵小説は必ず犯罪を含み、又、犯罪小説には多くの場合、発覚の径路も書き添えられ、そこに多少の推理も含むからである。この曖昧さが探偵小説と犯罪小説の混同を来しているのではあるまいか。これを判別するためには、倒叙探偵小説と犯罪小説との差異を明らかにするのが、一つの便法ではないかと思う。
両者とも、純探偵小説のように犯人を隠さないで小説の初めから犯罪者の心理を描いて行く点では一致しているが、倒叙探偵小説となると、そこに作為が加わってくる。犯人は単に激情のために罪を犯すだけではなくて、その犯罪が容易に発覚しないような欺瞞を案出しなければならない。そして小説の後半において探偵の側がそのトリック発見に、機知と推理を充分働かさねばらならない。ここに探偵小説本来の興味が加わり、単なる犯罪小説と区別されるのである。そういう要素を欠くか、又は極めて稀薄な犯罪小説、犯人の社会環境や動機や心理を描くことを主眼とし、犯人のこざかしき奇術的トリックなんかは却って邪魔になるような作風のものは、探偵小説ではなくて、普通小説に属すると考えるのが正しいと思う。作者にとっても、読者にとっても、そういうものに強いて探偵小説の肩書をつける必要はないのである。

「二つの比較論」より


No.48掲載

大内茂男のことば

今日の読者が推理小説に求めるものは、単なる謎解きの推理的興味だけではなく、それを裏づける社会的現実やそれにたいする批判である。社会全般が無事平穏に暮らしていた昔ならば、不可能興味と、意外なトリックと、スリルやサスペンスだけで事たりたかもしれないが、今後は、そうはいかない。年少読者なら、あいかわらずスーパーマン的な探偵の活躍に拍手を送り、これをあこがれや同一視の対象にするかもしれぬが、そのような作品では、おとなを相手にするわけにはいかない。今日の成人読者は、推理小説にも、きびしい現実批判と、人生観・世界観を要求しているのである。私個人は、どちらかといえば旧時代的なミステリ・ファンで、推理小説には強いて謎解き以上のものは求めず、人間的・社会的な興味や芸術的なものにたいする要求は普通文学によって満たしている、いわば両刀使いなのだが、私みたいな旧弊な読者はしだいに減りつつあるようだ。少なくとも、新しく推理小説の読者層に加わる人々は、たんなる謎解き以上のものを求めている。(中略)
今後はリアリズムの推理小説が要求されるようである。それは、トリックからではなく、心理や性格や、動機や社会性から出発した推理小説である。松本清張氏がその先鞭をつけた。そういうものでなければ、もはや今後は読者から歓迎されないのではないか。(中略)推理の面白さが、豊かな文学性に裏づけられていなければ、今後は読物としても、通用しなくなるのではなかろうか、と思われる。

「動機の心理」より


No.3掲載

大下宇陀児のことば

新しく書きたいものが、だんだんあるようになった。だんだんあるようになった−という言葉は、少しく説明を要するが、終戦後しばらくのうち、私は小説など、とても書く気になれなかったのが、おおいに書きたくなってきた、という意味だ。どんなものを書くかといえば、いろいろあるが、その中に、探偵小説もはいっている。(また説明のいる言葉が出た。探偵小説もというのは、探偵小説以外のものも書くということだ。)そうしてその探偵小説ではだれもやらなかった分野に手をつけてみたいのだ。
従来の探偵小説は、大体において、ヒロイズムだといえる。一人のすぐれた探偵が出る。群小を眼下に見くだしつつ、この探偵がすべてを解決する。私は、こういう探偵小説の傾向が、必ずしも悪いとはいわないが、いくつかの探偵小説に特有な欠点を生むものだということを知っている。その欠点で、もっとも顕著なのは、作中人物が不自然な講堂をとり非常識になり、生きた血の通っている人間が一人もいないような小説が出来てしまうことだろう。もちろん、機械的な人間なみの動きしかない小説でも、ある時、たへんに面白い小説がないわけではない。が、悪いときには、この傾向の小説は、もっとひどい欠点を露出する。推理小説とさえよばれるくらいなのに、論理的に見て支離滅裂といった感じの小説を作り上げてしまうのだ。

雄鶏社版「鉄の舌・後記」より


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No.28掲載

海渡英祐のことば

この三つの作品(注:ドイルのホームズもの、カミの「名探偵オルメス」。スティヴンソンの「新アラビア夜話」)にふれたのは、私の乱読が生んだ、まったくの偶然にすぎないのだが、いま考えると、この少年時代の記憶が、私の推理小説観の基盤になっているような気がしないでもない。何故なら、いささかこじつけめくかもしれないが、まるで傾向の違う上記の三作品の中に、推理小説の魅力のすべてが含まれているように思われるからだ。
ドイルの謎の設定の巧みさ、オーソドックスな論理、そして結末の意外性。カミの奇想天外な思考の飛躍、スティヴンソンの「自殺クラブ」などに見られる発端の面白さと劇的な展開、それに強烈なサスペンス。つきつめてみると、そうした要素をすべて備えているのが、私にとっては、理想の推理小説ということになりそうである。
もちろん、それはあくまでも理想であり、一つの作品に全部を盛込むのは、すこぶる困難なことであろう。これらの要素のごく一部を活かしただけで、すぐれた推理小説になっているものも多い。例えば、マクベインの「殺意の楔」やパリンジャーの「赤毛の男の妻」などのように、ほとんどサスペンスだけで全篇をもたせている作品も、立派なミステリィである。

「私の推理小説観」より


No.22掲載

香住春吾のことば

推理小説が一部の人の云う如く、探偵小説の革命であるならば、それは飽くまで探偵小説のカテゴリーに属すべきであって、屋上屋を架するが如き二重名称は避けるべきである。又、その逆にその人たちの作風に見るが如き、非探偵小説を標榜するならば、推理小説たる新しいジャンルを創造すべきであって、探偵小説のひさしを借りるべきでない。
或は又、探偵小説を主体に怪奇、科学、空想、犯罪、思想等の広範な分子を包含するものを推理小説と称すべし、との意見ならば、全くその不必要を悟るべきであろう。それらの分子はスケール小なりと雖も独立したジャンルを持つものであって、敢えて探偵小説に間借することなくとも、それ自体立派な存在価値を持っているからである。
探偵小説は本格、変格の差を問わず探偵味を中心としたものであらねばならぬ。些少の類似性に云いがかりをつけて味方の陣営に引込もうとするのは、虎の威をかる愚にも等しい。我々は借物をして間口の広さを誇らなくともいい。
探偵小説の名称は古き歴史に培われた光栄を持っている。漢字制限が法的拘束力を持たぬ限り、古い看板を塗りかえる理由は全く考えられない。
混乱と疑惑と策謀を避ける為に、潔く推理小説なる字句は廃すべきである。

「推理小説廃止論」より


No.25掲載

香山滋のことば

私は強引に、或る程度の前提としての非科学性を読者に強いる。その代わりいったんその前提が登場と決まった以上は、つとめてそれらに現実性を与えてその償いに努力する。つまり、現実生活における諸々の制約を、ややくどいまでに押しつける。
幽霊も風邪をひき、透明人間も失恋し、半爬虫人も我々の言葉で物を考える。それらの「怪異なるもの」に、決して実生活の度を超えた勝手な行動乃至倫理道徳に悖る行為をさせないように必要以上に気を配る。その配慮をおろそかにしたら、怪奇小説は紙一重の差で出鱈目小説にしかならないであろう。
しかしながら怪奇小説の醍醐味は、ことさらに怪奇なるものの創造若しくは自然科学への巧みな結び付きなどにあるのではなく、矢張り人間の心霊的所産、現実の存在の中から怪奇味を分離して感ずる心のアンテナの感度に依存するものをテーマとしたものに尽きるのではないだろうか。
その意味で、小説ではないが、廃屋となった水族館の水槽の中に置き忘れられたタコが自分の足を次々に食って生命をつなぎとめてゆくという、あの萩原朔太郎氏の散文詩「死なない蛸」の薄気味悪い情景から感じ取ることの出来るものの中にこそ真の怪奇味が存在するようにおもわれる。

「怪奇性の取扱について」より


No.24掲載

狩久のことば

探偵小説の魅力は、ポードイルチェスタトンにはじまる論理性だと思いますが、実は、この論理性というのが、意外に、本当に論理的ではないのであって、その意味であらさがしをすれば、名作にも欠陥はあり、読者の立場から云うと、探偵小説の魅力は、あらさがしの論理性を楽しむ事とも云えそうです。
ところで、この論理性なのですが、心理的な論理性について云えば、同じ刺激に対して必ずしも同じ反応を示すとは限らぬ、人間の心の動きは、探偵小説の中では、論理的には扱い難く、一方、物理的な論理性でも、探偵小説は、数学や物理学の書物に及びません。
にも拘わらず、探偵小説が、心理学者にも、物理学者にも、愛されるのは何故でしょうか?
ひと口に云えば、探偵小説の根本にあるものは、因習的、先入主的な物の見方に対する反撥で、そのような浅薄な物の見方に対して、自分の眼で物を見る探偵が、個性的な結論を出す−その自分の眼で物を見る事の魅力だと思います。
自分の眼で物をみる事は、科学でも、文学でも、芸術でも、その根幹をなすものであり、そのような共通性があるからこそ、探偵小説は、科学者にも、文学者にも、芸術家にも、そして、すべての人々に愛されるのではないでしょうか?

「楽しき哉!探偵小説」より


No.6掲載

木々高太郎のことば

探偵小説は、特別の形式(或い条件)を持った小説である。唯形式が特別であるだけのことで、出来るもの、その内容は、即ち文学であり、小説であり、広い意味では芸術である。詩歌も、俳句も、純文学の小説も、戯曲も、各々その形式は異なるけれども、悉く、その内容、即ちその形式を通して出て来るものは芸術であると同じように、探偵小説も亦、独特の形式、独特の条件を要求してはいるが、その形式、その条件を通して出て来るものは芸術である。而も、その形式なり条件なりは、詩歌俳句が音律を要求し、小説が要求せざる如き形式ではなく、もっともっと自由なる原野であって、小説と極めて近似のものであると称することが出来る。
形式、或いは条件とは何か、それは謎であり、論理的思索があり、そしてその謎の解決がある、と言う三つの条件である。この三つの条件を具備すると言う形式を通して何が出て来るかと言えば文学が出て来るのである。芸術が出て来るのである。故に、この如き形式はあってもその出て来るものが文学ではなく、芸術でない場合には、それは探偵実話であり、探偵読物であり、新聞三面記事であるかもしらぬが、然し、決して探偵小説ではあり得ない。

「愈々甲賀三郎氏に論戦」より


No.46掲載

邦光史郎のことば

従来のいわゆる探偵小説は、トリックが主であって、その殺人動機は、やもすれば従属せしめられ、軽視されていた嫌いがある。
それは、探偵小説のもつ遊戯性という特質から視て、実はもっともな事情を有していたのであるが、すくなくともその作品に社会性を附与しようといえば、仮りにも遊戯性の残滓があってはならず、それでは作品にリアリティを欠くことになる。
社会派を称える以上は、あくまでリアリスチックでなければならず、現実社会を作品上に再現せしめなくては意味がない。
そのため、在来の探偵小説がもっていた、謎解き遊戯という本来の使命を、否定した所に社会派推理小説が構築されたものなのである。
いわばそれは、作者対読者の智的プレイをその生命とする探偵小説という母胎から生れ出た、一種の鬼子であり、たとえ鬼子であっても、その母を探偵小説という土壌とする点において、正統なる嫡出子でもあったはずなのだ。

「いわゆる社会派について」より


No.29掲載

黒岩重吾のことば

最近純粋な意味での推理小説といわれる作品が非常に少なくなったようである。
推理小説が一般の小説の中に解け込み、推理的な手法を使った風俗小説なり社会小説が多くなって来ている。私は昔、或る新聞に書いたことがあるが、人間や社会を描く場合に、推理的な手法を使うと、非常に内部まで書き込んだ重苦しい作品でも、比較的書易く多勢の読者がついて来てくれるようである。
この考えは今も変わっていない。だがこの場合、作家の重点が人間なり社会なりに置かれて、推理的な手法が一種の小説作法になっている場合、この小説は明らかに推理小説ではない。風俗小説であり社会小説である。
私はその種の作品をかなり書いているが、自分なりに推理小説と非推理小説との区別は、はっきりしていて、その種の小説には、推理小説という言葉を、連載の場合でも、単行本にする場合でも、つけないようにしている。
矢張りこの区別は必要であろう。推理的な手法を使った小説を総て推理小説とするならば、バルザック、ヘミングウェイなどその名をあげるまでもなく、今までの小説のかなりのものが、推理小説になってしまい、所詮独善的な文学論に終わってしまうだろう。

「風俗小説と推理小説」より


No.4掲載

甲賀三郎のことば

さて探偵小説とは何ぞや、という問題について、私の下した定義は次のようである。
「探偵小説は。先ず犯罪−主として殺人−が起こり、その犯人を捜査する人物−必ずしも職業探偵に限らない−が主人公として活躍する小説である。」
無論この定義は法文のように毫末も狂いがないというほど厳密なものではない。例えばルパン物語や地下鉄サムは十分この定義の中に這入り得る。何故ならば、これらの小説には、犯罪があり、捜査がある。只主人公として活躍するのが、捜査する側になくて、反って犯人側にあり、捜査を免がれる為に、いろいろと活躍するので、主客顛倒しているだけである。もし之らのものを例外として取扱うのが面白くなければ、定義の中に、若しくは犯人が捜査より免がれん為に活躍する小説と入れて置けばいいのである。
私が探偵小説の名から排斥しようというのは、所謂変格探偵小説として、探偵は勿論犯罪らしきものさえないものをいうので、之等のものは後に論ずるように、宜しく他の名称を附すべきであると信ずるのである。

「探偵小説講話・まえ書き」より


No.32掲載

河野典生のことば

ハードボイルド推理小説は、ハメットによって創始された。ハメットが、腕力のみがあって知性に欠ける粗野なサム・スペードを探偵役に選んだ時、推理小説はひとつの革命を体験した。サム・スペードの踏み込んで行った世界は、暴力組織という人間関係の謎であり、いわば<流動する謎>であった。
ハメットの選んだ謎の解明のためには、かつての市民(ブルジョワ)探偵は全く無能な存在であり、サム・スペードは書物の代わりに、殴りつけられる体験を、パイプの代わりに拳銃を持ち、流動する謎を追って「行動」した。
こうして推理小説は、それまでの探偵小説に無縁だった多くの大衆を獲得したが、あまりにも、従来の推理小説に対する敵意が強烈だったために、数えきれぬ俗流追随者を生むと同時に、推理小説の世界では傍系と見られる因を作ったとも思える。
そして、ハメットの創造した「タフガイ」に、「知性」のかげりを加えたチャンドラーのフィリップ・マーロウらの登場によって、「現代の本格派」である正統ハードボイルドが確立され、推理小説は、分裂しはじめていた「推理」と「小説」を統合し、再生したのである。(中略)
さて、パズル派推理小説を象徴するものは<密室>であるが、正統ハードボイルドの象徴は<失踪>であると私は考える。

「現代推理小説の技法」より


No.44掲載

権田萬治のことば

代数に剰余定理というものがあるが、それをもじっていえば、推理小説は割り切ることを目指しながら常に剰余を残さざるをえない小説であり、その剰余は二次的ではあるが、推理小説の価値に大きな影響を及ぼす。ただし、解決>剰余 という関係は推理小説である以上常に不変でなければならない。

剰余定理の二 推理小説における社会性は導入すべきものでなく、優れた推理小説が内に秘めるべきものである。

二の系 したがって、推理小説が現実に起こった事件の資料を利用して推理小説を社会化することによって質を高められると考えるなどは単純な錯覚にすぎない。

私はトリックや意外性がないからといって現代の推理小説を非難することはしない。いずれにせよ今後推理小説はサスペンス小説、犯罪小説の方向に大きく屈曲するであろう。そして、フリー・セックスといわれる時代の中で性の解放もさらに進むであろう。だが、いたずらにエロを売り物にした推理小説だけが氾濫している商業ジャーナリズムの頽廃した現状ととにかく売れればよいんだ式の作家の良心の低下を強く非難したいと思うのである。(中略)

剰余定理の三 推理小説におけるエロチシズムは推理小説の本質とかかわる有機的関係においてのみ必要最低限に認めるべきであり、極端な場合には絶無でもかまわない。

「推理小説の剰余定理」より


-さ-


No.30掲載

笹沢左保のことば

推理小説の風俗小説化はこの辺で食いとめなければならない。読者の推理小説に対する拡大解釈も、何とか改めさせて、推理小説として認識される限界をはっきりさせる必要がある。
推理小説はあくまで特殊な小説だと思う。従って、推理小説を書ける才能も、また特殊なものである。作家だからと言って、誰にでも書けるものではない。その点がどうも、誤解されているようである。
ところが、推理小説さえ書けば作家として世に出られるという一時期に、それを利用しようとする人々が登場した。推理小説を書く才能などありはしないのに、推理小説らしいものを書いてブームに便乗した。
作家としての才能は十分あったので便乗もできたのだろうから、それはそれで結構である。だが、推理小説と風俗小説が同化してしまったのは、そうした人々にも多くの責任があるのだ。
推理小説(事件小説も含まれる)によって作家として地固めてを了ると、そうした人々はさっさと転向してしまった。もっとも推理小説を書き続ける才能は最初からないので、そうするほかはなかったのだろう。(中略)
しかし、読者は結局、純粋な推理小説を望んでいるのである。だからこそ、推理小説の風俗小説化を食いとめる必要があるのだ。推理小説を書ける人間として、推理小説の特殊性を明白にさせる義務があるようにも思えるのである。

「風俗小説化の功罪」より


No.27掲載

佐野洋のことば

この連載エッセイ(注:「ミステリ如是我聞」)によって、私の「推理小説観」が徐々に、変って行ったからである。
いや、本質的に変ったのではない。それまでに言って来たいろいろなことが、一つにまとまったものにこそ、「優れた推理小説」だと、考えるようになったのだった。
つまり、

  1. 読者に楽しんでもらうためのものであり、小説としての面白さを持たなければならない。
  2. 同時に、首尾一貫性を持ち、建築美、構成美が要求される。
  3. 古い、先人の試みた技法は意識的に避け、それに挑戦し、新しいものを創り出さなければならない。

こうなっては、かつてのように、簡単に筆を執るわけには行かない。私の「書きおろし」の速度が鈍ったのは、当然である。
そして、いま、また私は、ここで、この「推理小説観」を確認してしまった。
これは、今後とも私を縛るであろう。いささか心細く、しかし、反面、改めて闘志が沸かないでもない。

「回顧的推理小説観」より


No.16掲載

島田一男のことば

推理小説を読む場合、結末を先きに読んでしまうのは読者として邪道であると云われている。だが、最後を読まれても頭から読まずにはいられないような作品を書く、それが推理小説の作家ではないか。これとよく似ているが、途中から読んでも興味を持たれ、謎の中に読者を引きずり込んで行く。それが優れた推理小説ではないか。また、ショート・ショートの逆に、ロング・ロング小説−小さな出来事は次々にケリがつくが、本筋の謎は延々として果てしなく続く。そんな推理小説があってもよいのではないか。私はそんなことを考えるようになった。
この考えは、いまでも続いている。−私はいま推理作家協会の理事長と云う立場上、推理作家協会賞乱歩賞の銓衝委員をしているが、現在の推理小説観からすると、読むだけでも苦痛を感じる作品が大変多い。古い形の探偵小説−トリック先にあり、物語つくられる・・・この種の小説、松本清張氏の形式だけをまねた社会派小説、新聞の切抜きをつぎはぎしたような告発小説・・・この種のものがいかに多いか。しかも必然性も必要性もない長々としたベッドシーンの挿入。私はそんなものに点を入れる気にはとてもなれない。

「探偵小説から推理小説へ」より


No.49掲載

島久平のことば

私の場合、探偵小説の発想にだいたい二通りある。まず話が先でトリックが後の場合、その反対にトリックが先で話が後の場合である。楽屋落ちめいて恐縮だがもう少し説明させて頂くと、頭の中にこんな話を書いて見たいという創作欲が沸いてくる。そのまま書いてゆけば普通小説だが、これを探偵小説として仕上げたいので、その話にふさわしいトリックを考えることになる。この反対に、トリックが先に出来る場合がある。トリック無用論などをとなえる人もあってトリックなどに頭を痛めるのは時代おくれかも知れないが、本当に探偵小説の好きな人はいつもトリックを考えているものだと私は思う。私自身、なにか新しいトリックはないかと考える一人なのである。もうあらゆる型のトリックは出つくしたし、種ぎれだということは定説になっているけれど、それでも私は未練らしく新しいトリックを探している。小説の話が無限ならトリックも無限であるというのが私の信念であるけれど、これは信念であって新しいトリックをいくつも発見して見せるぞという自慢ではない。こういう信念を持ってトリックを考えるのが私には楽しいのである。(中略)
トリックが優れているからとて話を軽視していいわけではないし、話に重点においたからトリックをなおざりにしていいわけではない。両輪がそろって探偵小説という車が動き出すわけであるけれど、よくしたもので話から入った場合にはトリックがお座なりで、トリックが先の場合には話に無理が生じやすい。

「密室の妻」後記より


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